【京 の 歳 時 記】
伏見稲荷大社で毎年(6 / 10)五穀豊穣を祈る農耕神事「田植祭」で植えられた早苗が稲穂となり、秋の恵みに感謝する「抜穂祭」が十月二十五日、境内の神田前の舞台で営まれ、雅楽の優雅な調べと、あでやかな舞が披露される中、男女約二十人の男女が、すげがさに袴姿のいでたちで横一列になり、かまで手際よく刈り取っていた。古式ゆかしい稲刈りで約五アールの神田で毎年約百八十�を収穫し、十一月の新嘗祭で神前に供える。
【京 の 歳 時 記】
京都の三大祭りの一つで、秋を彩る「時代祭」が十月二十二日(金)正午、時代行列は京都御所・建礼門前を出発して平安神宮へと華やかな時代衣装に身を包んだ総数二千人もの大行列が古都・都大路に一大絵巻を繰り広げ、練り歩きます。京都の三大祭りとは五月の「葵祭」、七月の「祇園祭」、十月の「時代祭」で、その歴史は葵祭は一四〇〇余年、祇園祭が一〇〇〇余年の長い歴史を持つのに対して、時代祭はたった一〇〇余年なのです。
★時代祭についてあまり知られていない事実やヱピソート
明治二十八年というのは平安京が京都に築かれてから丁度一一〇〇年目という記念すべき年でしたが、その頃の京都は明治維新によって首都が東京に移りすっかり活力を失い、さびれていた頃です。その時かっての京都の活力を取り戻そうと情熱に燃える京都市民が「平安遷都千百年祭」というイベントを企画し、たまたま第四回国内勧業博覧会と時期同じくしたので、その記念モニュメントと博覧会のパピリオンとして、平安宮大極殿の縮小復元が成され、その出来ばえは素晴らしく神宮としての保存が決定され、平安朝の創始者・桓武天皇が祀られることになったのです。それが現在の「平安神宮」で、当然神を祭るならば例祭が必要となりそこで考え出されたのが「時代祭」なのです。
明治二十八年十月二十二日はまさに新都・平安京の始まった日、つまり京都の誕生日です。「時代祭」という神事として毎年この日に行われるようになったのです。
時代祭の見どころは豪華な衣装の数々です。一万二千点にもおよぶ衣装や調度品、祭具は全てが本物。その道のプロ達により時代考証が重ねられ糸一本に至るまで当時の素材や技法で復元されています。これぞ伝統工芸王国・京都のなせる技です。その貴重な衣装や道具は1人当たり一〇〇〇万〜三〇〇〇万円です。行列は十八列、総勢二千名程ですからその評価額は…何と四十億〜五十億円、まさに動く美術館です。
当日、各時代の衣装をまとった行列は明治維新、江戸時代、安土桃山時代、吉野時代、鎌倉・室町時代、藤原時代、延暦時代の順に出発し、京都千年の歴史と文化が一目で判るようになっています。特に人気の列は京都御所・建礼門から、錦の御旗や陣羽織姿の隊長を先頭に、小中学生の筒袖の羽織に紫色の袴を着けた鼓笛の音とともに現れる鼓笛隊や鉄砲隊など、総勢八十人が、維新時そのままにゆったりと行進する、行列の先頭を行く山国維新勤皇隊、坂本龍馬らが登場する明治維新の立て役者となった幕末志士列と京都にゆかりのある婦人列。婦人列は江戸時代、中世、平安時代の三列あり京都の五花街の芸妓さんらが持ち回りで担当します。
最後尾につく桓武・孝明両天皇の霊を祀る鳳輦。京都で生涯を終えた最初と最後の天皇は、毎年この時に市中の繁栄を眺めて都大路を巡られる。
時代祭りが始まった明治時代は、室町幕府を開いた足利尊氏が「逆賊」とされ、室町時代列が作られなかった。創設当時は天皇崇拝が色濃い時代で、天皇に刃向かった尊氏に代わり、後醍醐天皇上洛を導いた楠木正成の列が作られたが、「日本文化の原点となる北山・東山文化がないのはおかしい」ということで、能や華道、茶道が発展した室町文化の行列で、金閣を造った三大将軍義満や銀閣を造った八代将軍義政のほか能作者世阿弥や茶人千利休、作庭で名高い夢想国師らの室町時代列を新設する計画が固まり、来年度から登場するらしい。
※尚この日、夜は京の三大奇祭の一つ勇壮な炎の祭典として知られる「鞍馬の火祭」が行われます。双方とも周辺道路は臨時の交通規制が実施されますので京都へ車でお越しの節は雑踏にご注意を………
織田信長を祀る北区・建勲神社で十月十九日、恒例の「船岡大祭」が営まれる。長篠の合戦にちなんで火縄銃の三段撃ちなども実演。大祭は戦火で荒れ果てた京都の復興に尽力した信長を偲び、太平の世を願う祭りで、信長が始めて上洛した一五六八(永禄十一)年十月十九日にちなんで毎年開かれている。 神事では、信長が桶狭間へ出陣する前に舞ったとされる仕舞「敦盛」が奉納された後、古式炮術流儀保存会の会員九人が、拝殿前の石段から秋空に向かって火縄銃の空砲を打ち鳴らした。甲冑姿の会員が「火ぶたを切れ」「放て」などの合図で引き金を引くと、身体を揺さぶるような轟音が船岡山にこだまし、戦国時代に思いをはせていた。 その他、キリシタン衣装を付けてポルトガルギターの奉納や舞楽の奉納がある。
★源平合戦、壇ノ浦の戦いで知られる那須与一の墓がある東山区・泉涌寺塔頭 即成院では、毎年十月第三日曜日に「二十五菩薩お練り供養大法会」が行われる。
今年は十七日で午後一時から。
本堂を極楽浄土、境内の地蔵堂を現世とし、その間約六十�に高さ二�の橋を渡し、現世の衆生を二十五菩薩が極楽に迎えに来る姿を現す法要。ホラ貝を吹き鳴らす修験者や僧が、まず稚児を先導。その後、金色の各菩薩の面をつけ、金襴の衣装をまとった二十五人の菩薩役の信者が橋を渡って、ご来迎を再現する。最後に本堂内で観音、勢至、普賢の三菩薩が優美な「極楽の舞」を披露する。
★かって天皇のかわりに伊勢神宮に仕えた斎宮が、京から伊勢神宮に向かった様子を再現する「斎宮夢行列」が十月十七日、嵐山一帯で催され、十二単衣の斎宮や稚児ら約百五十人の行列が嵯峨野の竹林をゆったりと練り歩いた。行列は斎宮代や騎乗の監送使、命婦役らが野々宮神社を出発し、途中で稚児が加わり、緩やかな足取りで渡月橋へと出発。斎宮代は桂川で手を洗い、身を清める壮麗な王朝絵巻行列。
南北朝時代までは、天皇の即位に合わせて、皇女が斎宮として嵯峨野から伊勢神宮に向かった。
平安末期、熊野信仰が盛んであった頃、後白河法皇の勧請と伝えられる京の三熊野の一つ、東山区の芸能上達の神様として知られる新熊野神社(イマクマノ)で十月十五日、「大樟祭」(クスノキ)が行われる。樹齢九百年とされる大クスノキの前で、かがり火に照らされた舞台で優雅な舞楽が奉納される。クスノキは高さ二十�の大木で、一一六〇年の同神社創建の際に、後白河上皇が熊野より移植したといわれる。同神社では、能楽を大成した観阿弥・世阿弥親子が足利義満の前で猿楽を演じたといわれる。
狂言の草分けといえる「壬生狂言」の秋の特別公開が壬生寺の大念仏堂で十月九日〜十一日(三日間)連日午後一時から狂言五番ずつを上演。『ガンデンガン』の囃子に合わせて演じられる軽妙な無言劇・壬生狂言は、鎌倉時代に壬生寺を興隆させた円覚が、民衆に仏の教えを身振りで伝えたのが始まりとされる。七百年の伝統を伝え、重要無形民族文化財を受け三十曲を受け継いでいる仏教無言劇。毎年秋の「大念仏会」に上演される。
この壬生寺は幕末の志士・近藤勇率いる「新選組」の駐屯所としても有名。
右京区花園の妙心寺塔頭・東林院で毎年、春と秋に催される、庭に配されたろうそくの明かりを楽しむ夜間特別拝観「梵燈のあかりに親しむ会」が十月八日から十七日まで(十日間)開催。午後五時半から九時まで。 有料。
毎年、春と秋に開催している。本堂前の庭園「蓬莱の庭」で、住職が手作りした瓦製の灯ろう「梵燈」六十台や竹筒百本のほか、古瓦などにろうそく五百本を立てて火がともされ、秋風に炎がゆらめく中、庭の木々が幻想的な雰囲気に浮かび上がる。
「心静かに日頃の自分を見つめ直す機会に」と住職の弁。
今年は東林院の本庵霊雲院の開祖・大寂常照禅師五百年遠諱にあたるため、ろうそくの配置で「大恩」の文字を描いている。
★九月二十八日は「十五夜」で、この日の月は「中秋の名月」と呼ばれ、一年中で最も美しいとされています。また「芋名月」ともいわれ、江戸時代には里芋を供えて食べていたようです。今ではススキを添えての“月見だんご”です。
★左京区・下鴨神社の神苑「糺の森」の御手洗川橋殿にて昔日のまま、神に舞楽・筝曲・尺八・十二単王朝舞などを奉納する古都の秋の行事「名月管弦祭」が九月二十八日、午後五時半より行われる (観賞無料)。
同時に観月茶席が設けられる(席料千円)。
「かがりび市」の開催で京老舗有名店舗が境内に出店する(午後三時より)。
日ごろ用いる櫛に感謝する「櫛まつり」が九月二十七日、第四十四回目を東山区の安井金比羅宮で催される。
古墳時代から現代までの髪型をした女性ら四十人余が櫛供養のあと神社境内を出発。各時代の髪型とあでやかな衣装の女人風俗行列が祇園界隈を練り歩く。
以前は「くし」の語呂合わせで九月九日にあったが、現在は美容師の休日の九月第四月曜日に行われるようになった。
東山区・泉涌寺塔頭の今熊野観音寺で、九月二十一日〜二十三日にお砂踏法要が行われている。四国八十八ヶ所霊場の全てのお砂を道場に集め敷き並べられ、その砂を踏み、参拝して無病息災を祈る。お遍路の行程を一日で巡ることができるとされる。
観音寺は西国三十三所観音霊場の第十五番札所。